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コンサートの記憶

あるコンサートの記憶から
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ウラジミール・トロップのコンサートを聴いて
 3月22日は忘れえぬ一日となった。この日のコンサートはトロップ氏のピアノ演奏が主でこの人の音楽性とその表現力の素晴しさにはCDを聴いトある程度は知っていたつもりであった。ところが実際はもっと深く非常に哲学的な観点から音楽を再現していることに気が付いた。正直驚いた。全体の音楽の構成、及びテンポの計り知れない自由な表現は未だに聴いたことのない世界である。つまりは音楽でいう、テンポ・ルバートニいう歌いかたの観点を越えて、事実、詩そのものの世界が音とともに彷彿する。それが実に生理的にも心情的にも心から感心させられ、深く響くのが聴くものに大きな感銘と衝撃を与えたのである。また音そのものからの響きは信じられないほどの美しさを湛えダイナミズムの変化は一台の同じピアノから出てくるものとは考えられないほどの様々な音色を聴くことができた。これだけ変化に飛んだ音色の違いを一夜の内に、それも一人の演奏家の弾くピアノから聴くことは普通に考えると凡そ不可能であるのが一般である。プロとアマチュアの差とか、そういうレxルの違いでは全く異なった、ありにも大きな非日常的とも言えるくらいの違いなのである。この違いを簡単に独特、特別と呼ぶにはあまりにも些末な表現となる。とにかく、このような音楽表現は現在は間違いなく他に存在していない。それだけは確実に言えるだろう。
 表現力の齟[に良く歌う状態をブーラブーラという言葉を用いる。つまりは美しいの旋律に出会ったりしたとき、またその歌いかたなどによって、自分の好きな音楽ないし音そのものに陶酔することがある。それは人それぞれの感性や感覚での違いは有るものの、自ずと自己の心情に照らし合わせて心の反応ヲすことになる。つまりはキャッチ・ボールのように、問いに対しての答えを演奏家に対し、聴きては必ずといっていいほど表現しているのである。自己陶酔的な演奏家は好きな旋律に顔の表情や目をつむったりしてさまざまな変化を自然にその音楽に対し、感情の一端を心と共に捧げている。それが目に見える人もいれば、限界までの表現をしながらも表情として表に出さないで内なる世界で燃焼させながら表現する人もいる。トロップ氏、彼は完全に後者であった。あれだけ歌っていて、全くといっていいほど見せないのである。全体に遅めのテンポであり、実ノ良く歌っている。これ以上遅くなると音楽が壊れる、これ以上歌ってしまうと音楽が変わってしまう。その限界を痛切に感じる有る面で究極の演奏であった。真摯な姿勢が聴くものに見ているだけでも伝わってきた。
ときおり起こるミスタッチをまったくミスという観点ではとらえなくてすむ非常に素晴しい演奏であったのである。
 演奏後もその人となりを解りえる色々な話しができた。音楽に対する考え方、今日のプログラムの作曲家の作品に対しての考察、哲学的なまでの造詣深いコンセプト。一緒に美酒を飲み、食する姿に自分ながら、こんなすごい人と話ケて、食事を共にさせていただいていいのだろうか?と思ってしまったほどである。・・
 どれほどの賛辞をここで述べても言葉では言い切れない。一瞬にしてこの美しき音楽その演奏が、今までを淘汰する。印象深い計り知れない幸福を与えてくれた素晴しい一夜であったし、自分自身、陶酔しきった演奏会であった。





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